2016/11/01

WAZの内田篤人の記事

内田
不運のシャルケ内田篤人に大きな進歩
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/schalkes-pechvogel-atsuto-uchida-macht-riesige-fortschritte-id12323364.html


2016年11月1日 23:55

写真キャプション:まもなくシャルケのチームに復帰か。内田篤人

ゲルゼンキルヒェン。シャルケの観客の人気者、内田篤人は何か月にも及ぶひざのトラブル以来、これまでにないほど良い状態になっている。日本人の彼が最後に試合に出たのは、もうずっと前のことだ。

これはシャルケのマルクス・ヴァインツィール監督が近いうちに新加入選手を自軍の病院から獲得するようなものかもしれない。内田篤人は長い苦難の時期と何度かの再発を経て、練習場で大きな進歩を遂げている。

動き続ける日本人の彼の右ひざは負荷に耐えている。「実際のところ、内田の様子は非常に良い。現在のような状態はけがをして以来初めて」。内田のここ数週間の診察予定やリハビリ処置をしっかりと管理してきたシャルケのスポーツディレクター、アクセル・シュスターは喜ぶ。

だが、この右サイドバックはあと数日辛抱して待たなくてはならない。ブンデスリーガのホーム戦、対ヴェルダー・ブレーメン戦(日曜17:30からSkyにて放送)が終わってからの代表戦による中断期間中に、ケーニヒスブラオ(※訳者注:シャルケのこと)の不運な彼は次のステップに進む予定だ。現役終了の恐れがあるとの恐ろしい知らせが駆け巡った直後、良好な結果が得られた10月上旬のMRI検査の後に、スポーツ部門責任者クリスティアン・ハイデルはチーム練習への合流までに「4週間から6週間」かかると話していた。つまり内田篤人はベストなスケジュールで進んでいるのだ。

内田がシャルケで最後に試合に出場したのはずっと前

「篤人を完全に構想に入れることができるようになるまで、もうそれほど時間はかからないだろう。そうなればもう何も気を遣う必要はない。そこまで来れば、内田はすべての練習メニューに参加できるようになる。今は我々もまだ少し慎重で、練習によっては彼を外すこともあるので」とアクセル・シュスター。

二度のワールドカップに参加している内田が最後にブンデスリーガの試合に出場したのは、もうずっと前の話だ。2015年3月7日、“ウシー”は3-1で勝利したホームでのTSGホッフェンハイム戦の前半35分に、すでにイエローカードが出ていたマルコ・ヘーガーと交代で入った。続くヘルタBSC、バイエル・レバークーゼン、FCアウクスブルク、SCフライブルクとの試合でもチーム18人の中にメンバー入りしていたが、ウォームアップだけで終わった。膝蓋腱の問題が持ち上がったのはその後だった。内田は昨年4月から今日までブンデスリーガ49試合を欠場している。日曜日のブレーメン戦は、彼にとっては悲しく切りのいい記念日になる。

これからこのファイターが再び目指すのは、6年前に鹿島アントラーズから連れてこられた当時と同じ――痛みがない状態でサッカーをすることだ。1月初旬から始まるシャルケの冬のトレーニングキャンプは、内田にとって次の大事なステップになるかもしれない。特にプレッシャーがあるわけでもない。28歳の彼の就業証明書はシャルケで2018年6月まで有効なのだ。

Thomas Tartemann


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2016/10/06

westlineの内田篤人の記事

診療録
いいかい内田篤人、すぐ戻って来るんだよ……
http://www.westline.de/fussball/schalke04/atsuto-uchida-junge-kommt-bald-wieder


2016年10月6日 09:28 Susanne Hein-Reipen

【ゲルゼンキルヒェン】 マドリードでのアウェー戦で彼がFCシャルケ04として最後にピッチに立ったのは1年半以上前のことだ。それ以来、クナッペン(※訳者注:シャルケの選手たち)の中に右サイドバック・内田篤人の姿はない。その長期負傷中の彼から吉報が届いた――。

2015年4月に膝蓋腱を手術した右ひざは、女子の憧れの的である日本人の内田を長期療養患者にしてしまった。背番号22の彼が練習場に戻ってきたというニュースは、後戻り、つまり問題のひざが再び腫れて不安定だという知らせといつも入れ替わるのだった。

先日は、よりにもよってヨーロッパリーグで快勝という喜ばしいニュースの後に、“ウッシィィィィィィ”が――シャルケで内田は愛情を込めてこう呼ばれている――28歳にして選手生命を絶たれる恐れがあるとの恐ろしい知らせがメディアを通じて舞い込んできた。クラブは即座にそれを否定した。新たに行ったひざのMRI検査で「明らかな回復の所見」が得られ、この前進が続けば基礎トレーニングの内容を引き上げることができるというのだ。

心のど真ん中

この吉報にケーニヒスブラオ(※訳者注:シャルケのこと)のファンたちは沸き立った。2010年に鹿島アントラーズからシャルケに移籍してきた小柄な日本人の彼を、ずっと前からファンたちは心底愛しているのだ。移籍当初はこの極東の青年のポジショニングに心臓発作を起こす観客もいたものの、その不屈の献身性と尽きることのない運動量で、ジェフェルソン・ファルファンと“ドリームチーム”を組み、ルール地域の人々の心をつかんでいった。ゲルゼンキルヒェンでの時間について内田は「僕はここで戦うということを学んだ」と語っている。

そのうえ、内田は日本におけるFCシャルケ04の知名度をぐっと上げた。“ウシー”は故郷日本ではポップスター並みの人気を誇り、“添い寝ポスター”まで出るほどだ。シャルケの日本語版ツイッターアカウントにはほぼ一人で約9万人のフォロワーを集めている。日出ずる国からやって来た女性ファンがきゃっきゃっとうれしそうにシャッターを押す光景は、シャルケではとうの昔に珍しいものではなくなっている。そして、内田篤人はすべてのファンに対し――それが無邪気な女子だろうがいかにもな労働者だろうが関係なく――果てしない親切さと計り知れないほどの寛容さで、1904回目の自撮りにも応じるのだった。

クラブマガジン『Schalker Kreisel』で熱烈なカリーヴルストファンであることを告白したウシーは、チーム内でも大変好かれている。かつての相部屋仲間、ユリアン・ドラクスラーに宛てた「調子どお? がんばつてる? キミはいなくてウシーさみしい ダーリン」メッセージはもはや伝説である。(※訳者注:内田&ドラクスラー置き手紙記事参照)

シーズン開幕イベントにおける内田のドイツ語インタビューは、しばしば爆笑を誘っている。2014年には「クソくらえだ、ありがとう!」と明るく言い放ち、今年は「クソったれBVB」と機転を利かせ、観客とニヤニヤ笑うチームメイトたちの心をつかんだ。

内田は日本代表として74試合に出場しているが、肉離れで数か月間休養していたにもかかわらず参加した2014年のワールドカップもそこに含まれている。当時のシャルケのディレクター、ホルスト・ヘルトはそれに批判的だったものの、度重なる日本での治療のときと同じく、ウシーの邪魔をしたくはなかった。もしシャルケが内田のブラジル行きに異議を唱えていれば、彼の苦難の歴史と離脱期間はより短期間で終わっていたのだろうか。後からそれを立証できる者はいない。それよりも前に内田はシャルケでの契約を2018年6月まで延長している。

「ひざは完治しない」ということわざが真実ではなく、彼が104というシャルケでのブンデスリーガ試合出場数をまだまだ伸ばせることをシャルケのファンは願っている。“ウッシィィィィィィィィ”がすぐにまた右サイドを疾走できるよう、皆で健闘を祈りましょう!



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2016/09/08

WAZの内田篤人の記事

故障者
シャルケのコケに有効な注射治療、日本から戻ってきた内田
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/spritzenkur-hilft-schalkes-coke-uchida-aus-japan-zurueck-id12177325.html


2016年9月8日 18:52

ゲルゼンキルヒェン。スペイン人コケは12月に合流する予定だ。アヴディヤイには2週間後の復帰が見えてきた。内田についてはもっと時間がかかるとみられる。

FCシャルケ04の理想フォーメーションが芝の上で実現するのには、あと数か月かかりそうだ。スペイン人の右サイドバック、コケはレギュラーメンバーとして構想に入れられていたが、開幕前の準備期間に入ってまもなく十字靭帯を損傷し、現在も復帰に向け慎重に取り組んでいる。シャルケのスポーツディレクター、アクセル・シュスターはWAZのインタビューでこう明かした。「コケは今も故郷にいる。あと14日ぐらいで戻ると考えている。彼のけがは保存療法で、今は注射治療を行っている」。

ヨーロッパリーグを3度優勝しているコケには、スペイン人医師による2回の治療で明らかな改善がみられたという。「その治療でいい効果が出ているので、これから3回目の注射を行う」とシュスター。ではこの守備のスペシャリストのこれからのスケジュールはどうなっているのか。43歳のディレクターはこう続けた。「12月に合流し、ボールを使って何かしらできたらいいと考えている」。ヨーロッパリーグへはそれから追加登録される予定だ。

コケとは異なり、内田篤人はすでに国際大会の舞台に登録されている。28歳の日本人は1年半前からひざの痛みに絶えず苦しめられ、最近は治療を受けるため故郷に滞在していた。「内田は帰ってきている」と話すシュスターは、内田のピッチへの復帰をも確信している。「私はプロの楽天家で」。それでも、長い離脱期間の後に何事も急かすわけにはいかないことは、マインツで働いていた彼にもわかっている。「フィジカルトレーニングやウエイトトレーニングを多く行って、他の部位に問題が出てくることはよくある。これは経験が教えるところだ。我々は時間をかけていく。3週間、6週間、はたまた12週間かかろうがかまわない」。

トンネルの奥に光が見えたアヴディヤイ

才能の持ち主ドニス・アヴディヤイはもうそれほど長く我慢して待つ必要もなさそうだ。20歳の彼はひざを負傷し、ドナウシュタウフの理学療法士クラウス・エーダーのところに滞在しているが、トンネルの奥に光が見えているという。「ドニスは2週間ぐらいで練習場に戻ってこれるかもしれない。この見通しは現実的なようだ」とシュスター。

ソーシャルネットワーク上のアヴディヤイはすでにかなり気分が高揚している様子で、ファンにこう約束している。「すぐにピッチでまたみんなを虜にできるように頑張ります」


Thomas Tartemann



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fussball.newsの内田篤人の記事

内田、三週間以内にボールを使った練習を行う可能性
http://www.fussball.news/uchida-koennte-in-drei-wochen-mit-dem-ball-trainieren/



Raphael Wiesweg
2016年9月8日 16:12

ゲルゼンキルヒェン ― シャルケの観客の人気者、内田篤人が再び痛みのないサッカーを目指してスタートを切る。右サイドバックの彼は信頼を寄せる担当医のいる日本への旅を終え、シャルケでランニングを開始した。シャルケのスポーツディレクター、アクセル・シュスターがfussball.newsの取材に応じ、『ウシー』とシャルケが描く復帰への計画について明かした。

写真キャプション:内田篤人は2010年に鹿島アントラーズからシャルケに移籍した。

fussball.newsレポーター・Buzz04ソーシャルメディアプロデューサーのRaphael Wieswegがゲルゼンキルヒェンからお伝えします。

木曜日の昼に行われたfussball.newsの取材に対し、シュスターはまず内田が日本から戻ってきていることを認めた。「もちろんプレッシャーはかけない」とシュスターは言い、“長期療養患者”について辛抱強く対応する意思を示した。内田は右ひざに問題を抱えて2年、ケーニヒスブラオ(※訳者注:シャルケのこと)での最後の公式戦から1年半以上になるのだから道理である。

シュスター:「内田自身の感触はいい」

シュスターは言う。「篤人自身、今のところ感触はいいとのこと。いい感触というのはこれまでも毎回あったが、それも負荷をかけるまでの話だった。だから、日本から持ち帰った今のいい感触が本物であるかどうかも、様子をみなければならない」。シュスターによると、28歳の内田は3週間以内に“ボールを使ったサッカーならではの練習”を行うことになっている。もちろん、チーム練習に進む前に、まずは個別練習からだ。観客の人気者である彼のヨーロッパリーグ出場メンバー入りも、当然意図的に決めたものだという。「すべてがうまくいけば、今年中にだってプレーできるかもしれない。でも我々は焦らないで慎重にいく」とシュスター。

内田の体は負荷に耐えられるか

内田の筋肉量は落ちすぎてはいないとシュスターは付け加えた。長期間を経てもそこの問題はないということだ。だが、右サイドバックの彼がもう一度シャルケで試合に出場できるかどうかを決定するのは、負荷なのである。


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2016/08/08

WAZのハイデルディレクターインタビュー

インタビュー
シャルケのハイデルディレクター:「シュプレヒコールはまだ自分には相応しくない」
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/schalke-manager-heidel-die-sprechchoere-habe-ich-noch-nicht-verdient-id12080498.html


2016年8月8日 21:03

ミッタージル。シャルケのクリスティアン・ハイデルディレクターが、金、目標、そして自分自身について語る。新しいクラブにすっかり魅了されている彼は「いくつかの分野においては、これ以上のものはありえないと言わざるを得ない」。

ミッタージルのシュロス(城)ホテルには塔の中に部屋があり、そこからの周辺一帯の眺めは抜群だった。そしてこの数日間で何より重要だったのは、良好な携帯の電波環境だ。シャルケのディレクター、クリスティアン・ハイデル(53歳)はそこにWAZを招き入れ、独占インタビューに応じた。

ハイデルさん、トレーニングキャンプで起こったドラマといえば、新加入選手コケの十字靭帯負傷でした。現在の様子はいかがですか?

クリスティアン・ハイデル:コケとは土曜日に長く話をしたのですが、それでまた少し前を向けるようになったようです。「ああ、これは何かの前触れなのだろうか」と我々はつい思ってしまうものですが、本人にとってこれがどういうことなのかを忘れがちです。移籍をして、知人もいない、馴染みのない国に来て、その2日後には横たわり怪我をしているのです。新たに代わりの選手を獲ることはしません。それはコケに悪い気がします。遅くとも後半戦には戻って来るのですが、我々はそれよりも早い復帰を願っています。

少なくとも部分断裂はしているという十字靭帯ですが、手術はするのでしょうか?

ハイデル:確定はしていません。負傷した膝の画像を何人かの専門家に送っていて、彼らの意見を踏まえて決定することになります。

ハイデルさんはシャルケに来て約3か月になります。トレーニングキャンプではファンによるクリスティアン・ハイデル・シュプレヒコールが起こりました。ご自身は気恥ずかしそうなご様子でしたが……

ハイデル:そうです、こんな短期間でそれはまだ自分に相応しくありませんから。チームが称えられるのはものすごくうれしいものですが、私自身がというのは少しきまりが悪い。でも、この好意というのは、人々がこれから我々がここでやろうとしていることを理解し、共に歩んでくれるというサインだと思います。


ハイデルが抱いたシャルケの印象とは
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/heidel-ueber-seinen-eindruck-von-schalke-page2-id12080498.html


シャルケは何年も外から見ていたとおりのものでしたか?

ハイデル:分けて考えねばなりません。感情の激しさとスケールは想像どおりでしたが、例えばミッタージルでさながら地域全体が1週間ファンたちで占められ、ほぼすべてのバルコニーに青と白のフラッグが掲げられる、それがどういう感じなのかはわかっていませんでした。クラブ自体はもっと違うものを想像していました。

というと?

ハイデル:外部の認識では、カオス(混乱)がシャルケらしさの象徴になっている。でもその認識を我々は変えなければいけません。実際の姿とは合致していないからです。私がいい意味で非常に驚いたのが、クラブ組織の成り立ちでした。マーケティングからメディア活動、財務にいたるまでです。いくつかの分野においては、これ以上のものはありえないと言わざるを得ません。マインツ在任時、私はクラブを可能な限り良い組織にするべく全力を注ぎました。でもここシャルケには、マインツにもこれがあったならと思うような、私自身その存在を全く知らなかったものがありました。あと、シャルケで私はもっと懐疑的な目で見られるのではと思っていました。

小さなマインツから来た奴が何をするつもりだ、ということでしょうか?

ハイデル:そうです。私は人付き合いにおいて当たりを引き当てたのかもしれません。ごく短期間で非常に率直かつ正直に打ち解けてもらえて。私は名誉教師や教えたがり人間として来たわけじゃありません。シャルケは非常に家庭的な雰囲気に満ちていると思うし、またそれを私も望んでいました。マインツの人たちと大きく異なるわけでもなくて。

どのようなところが?

ハイデル:住んでいるエッセンの郵便配達の人から多くの人々にいたるまでです。ゲルゼンキルヒェンの中心街でもそうです。行く必要はまったくないよとも言われましたが、私は興味があったので街に行って、それでカウフホーフデパートの中にある床屋にたどり着きまして。

詳しくお聞かせください。

ハイデル:会員総会の前に床屋に行きたかったのですが、マインツではどこの床屋も土曜日は6時まで開いているのに、ここではそうではなかった。唯一開いていたのがカウフホーフ内のところだったので、そこに入りました。人々の少し疑わしそうな視線を感じましたが、どうということもありません。そこにはこれまで2回も行きました。その後カフェに座ってゲルゼンキルヒェンの中心街を眺め、一度すべてを観察しました。ここはKö(※訳者注:ケー。デュッセルドルフにあるケーニヒス通りの通称。高級ブティックが立ち並ぶ)ではない。そのとおりです。でもそれも私には必要ありません。ここの人たちとはうまくやっていけます。

シャルケのチームはあなたの期待に応えましたか?

ハイデル:白状すると、チームは若く、選手たちはみんな大金を稼いでいて、ちょっと自惚れたところがあるかもしれないと思っていました。でもそんなことは全然ありませんでした。とても心地良い、手のかからないチームだと思います。――少なくとも現時点では。ミッタージルでも文句の一つも出ることなくトレーニングを行っていました。マルクス・ヴァインツィールはそれこそ厳しくしごいていましたが。また、我々がやっていることを選手たちが信用しているという印象も受けました。これも大事なことです。唯一悪い意味で驚いたのは、シャルケをホームとするチームのためのインフラ面における労働条件でした。でもそこの変革はすでに始めています。


クレメンス・テンニエスとの協力について
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/heidel-ueber-die-zusammenarbeit-mit-clemens-toennies-page3-id12080498.html


クレメンス・テンニエスとの協力についてはいかがですか?

ハイデル:彼の世間でのイメージは完全に間違っています。クレメンス・テンニエスがあらゆる決定を下しているのだと思われていますが、こじつけもいいところです。就任以降、私が彼をオフィスで見かけたのはたったの2回です。クレメンス・テンニエスは私から常に報告を受けることを望んでいるわけでもありませんが、もちろん我々がやっていることには関心を持っています。ただの監査役会会長であるだけでなく、自身もシャルケ04のファンですからね。これまで私に何か口出しをしてきたことすらありません。彼には適宜助言を求めているのですが、その時には力になってくれるのです。我々の間に問題が起こるとは思えません。

では、例えばザネの売却についてはいつテンニエスに報告したのですか?

ハイデル:電話で話はたびたびしていましたが、かけるのはだいたい私からでした。あのような規模だと、ディレクターだけで済ませる話ではないと思います。自分がどうするつもりなのか、この交渉でどういう方向に行きたいのか、またある程度のリスクと隣り合わせであることを彼に知らせていました。

ザネの移籍交渉中に破談になる懸念はありましたか?

ハイデル:ええ、正直に言うと。最初はとても大きな隔たりがありました。もしそれでいつかあちら側が4000万より多くは出さないと言ってきたら、それは戦略かもしれないけれど、わかりようがない。私は譲歩の余地を探り出そうとしました。そしてある時、これ以上はもう無理だという気がしたのです。イエスかノーかここで言わなければならない。そこで他のディレクターたちと監査役会に状況を知らせ、全員で意見が一致しました。もしマンチェスター・シティが条件をのむなら、我々も同意すると。この件についてはクラブ内で大きな賛同を得たかった。最後は神経がすり減りました。

ファンにとってはサッカーは今やモノポリーのように見えます。

ハイデル:そこまで大きく変わってはいないと思います、ときどき同じような事例で金額のゼロが2つ多くなるだけで。――まったくひどいものです。それ以外では結局のところ元のままで、マーケットに入ってくるお金はまた分配される。かつて1部と2部リーグのテレビ放送権は1000万ユーロでしたが、今では10億を超えています。恐るべき数字であることは私にも理解できます。人に聞かれることもしょっちゅうですよ、選手にはその価値があるのかと。それで私は言うのです。いや、ないよと。しかし、サッカー選手の価値をどう算定せよというのでしょう。正直に言いましょう、我々は変わってしまったマーケットの参加者であり、自分たちのクラブのために最大の成果を上げる努力をしなければいけないのです。

ドイツで新たなテレビ放送権の契約が発効し、クラブにさらにお金が入るとなると、来年はさらに移籍市場が過熱するのでは?

ハイデル:間違いありません。マーケットはもう一回り大きくなると思います。でも来年にお金が入ってくるとわかった上で、今すでにその分を使っているドイツのクラブがいくつかあるような気もします。

ザネの後任者と守備的ミッドフィールダーをさらに獲得したいということですが。今のシャルケには莫大な金があることが他クラブに知られているな、と交渉時に感じることはありますか?

ハイデル:(ためらいつつ)ええ、影響はあります。でもどちらかというと誰を売り込まれるかという部分でそれを感じます。いるんですよ、某選手について「たった2000万ユーロですよ」と言ってくる代理人が。そういう選手は以前ならうちに売り込まれることはまずなかったはずです、2000万ユーロなんてどうせあそこは出せやしないと誰もが言って。実際私はどの話し合いでも最初に代理人に言っているんです、この件はとりあえず忘れてほしいと。我々は無意味に投資するつもりはありません。お金があるときに特に慎重に使えというのはもちろん難しいものです。相場が変わっているのはわかっています。ある程度のレベルの選手を5、600万ユーロよりも安く手に入れられることは今やほとんどありませんからね。


移籍の流れについて
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/heidel-ueber-den-ablauf-bei-transfers-page4-id12080498.html


移籍に関して事前に話をするメンバーは?

ハイデル:事前の話し合いでは、まず監督、それとスポーツディレクターのアクセル・シュスターだけです。それから監督がコーチにだったり選手の調査を行うアナリストに話をすることもありえます。少し具体化して数字の話が出てくると、契約業務を担当しているアルンド・ホーフェマンの出番です。そしてもちろんペーター・ペータースとアレックス・ヨブストも。選手の獲得に動こうという段階になったら、クレメンス・テンニエスにも電話をします。我々のやっていることを知っているという気持ちでいてほしいからです。それ以外に知っている者はいないということになります。このメンバーの口の堅さは100%信用しています。

移籍は極秘任務なのでしょうか?

ハイデル:取り決めたにもかかわらず、選手だったり代理人が何かしら外部に漏らしていると気付いたら、通常その話は終了です。世間のプレッシャーを感じながらの話し合いは私はしないというだけのことで、選手と代理人も本当に移籍に関心があるならそれを守るものです。

トレーニングキャンプは月曜日に終了します。今ここでシーズン目標について質問をすれば、おそらく打倒バイエルンとは答えないのでは?

ハイデル:ええ、ナンセンスですね。それを目標に掲げるクラブはないでしょう。対戦するときに降伏するという意味ではありませんよ。現在のバイエルン・ミュンヘンがほとんどゼロなくらいミスがわずかであることは認めざるを得ないし、それを貫かれてしまうと、どのクラブにとっても近付くのは難しくなります。

では何をシャルケの目標として考えていますか?

ハイデル:持続的に成功を収める道を行く、これを最も高い目標とすべきです。私はシーズン毎にものを考えているのではありません。あってはならないのは、とある選手を獲得し、1シーズンしか戦力にならず、また手放してほっとするなどという例です。すべてを持続的な上位圏定着に向けて合わせていく必要があります。

チャンピオンズリーグは魅力的なのでは?

ハイデル:シャルケ04には持続的に国際的な舞台でプレーするという欲がなければいけません。もちろん今大事なのは良いシーズンにすることです。しかし決まった順位や勝ち点をキープするのは非常に難しいものです。昨シーズン、どれほど少ない勝ち点でシャルケが5位になったのかはご存知でしょう。


Manfred Hendriock



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2016/04/13

WAZの内田篤人の記事

内田
長期負傷の内田篤人を案ずるシャルケ
http://www.derwesten.de/sport/fussball/s04/schalke-sorgt-sich-um-langzeitverletzten-atsuto-uchida-id11732258.html


写真キャプション:復帰に向けて現在は日本で取り組みを続ける内田篤人

ゲルゼンキルヒェン。内田篤人がシャルケの試合に出場できなくなってもう1年以上になる。手術では望みどおりの成果を得られなかった。

内田篤人が最後に試合に出場したのは1年以上前のことだ。2015年3月10日、チャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦終了間際、彼は“王者の青”によるマドリードの奇蹟を起こそうとチームメイトと奮闘していた。シャルケは4-3でレアルに勝ったものの、チャンピオンズリーグから姿を消した。それ以来、内田篤人は一度も試合のピッチに戻って来ておらず、観客の人気者である日本人の彼が以前のようにボールを蹴ることができるようになるのはいつなのかという疑念が生まれている。シャルケは小さな“ウシー”に大きな懸念を抱いている。

28歳の彼は現在、再び故郷の日本にいる。信頼する医師に診てもらっているのだ。2015年の春に右膝の膝蓋腱を手術した執刀医である。内田はそこで復帰に向けて必死に取り組んでいる。経過予想はこうだ――プレーができるようになれば、そこでまたシャルケに戻る。その日本の医師は夏のシーズン開幕準備に照準を合わせたのだが、ここは注意が必要だ。彼は1年前の手術後に内田のコンディションは2015年10月に回復しているとの見通しを立てていた医師と同じ人なのだ。ちなみにその見通しは外れている。「だからこそ」とシャルケの監督、アンドレ・ブライテンライターは憂慮して言う。「いつ彼が再びプレーできるようになるのか、我々には大きな疑念がある」。

手術回避を勧めた医師たち

実際のところ、このディフェンダーの苦難の歴史は2年以上前から続いており、その中にはシャルケでこうだろうと考えられていたとおりにはいかなかった部分もある。2014年2月に厄介な筋損傷に見舞われ、日本で治療を受けたのが始まりだ。当時の内田にはどうしても2014年夏のワールドカップのために治したいという思いがあり、そしてそれはうまくいった。ブラジルでは3試合に出場を果たしたのだ――だがその後、彼は傷んだ体でシャルケに戻って来たのだった。

以来、内田は右膝の膝蓋腱に悩まされることになる。これはワールドカップでのプレーを可能にすることでかかった負担の影響であると話題になった。シャルケは保存療法を施し、2014年末に彼はピッチに戻って数試合に出場した。しかし痛みが消えることは決してなかった。半年後、シャルケは内田をミュンヘンにいるドイツ代表チームドクター、ミュラー=ヴォールファールト医師のもとへ送り、ディレクターのホルスト・ヘルトはこう報告した。「彼もウシーに手術を絶対受けさせたくない我々と同意見だ」。しかし、内田は日本の医師たちの助言の方に従って――そこで手術を受けたのだった。

サシャ・リーターは残留か

それからの回復は遅々としている。2015年の秋から再びシャルケでトレーニングを行うようになったものの、走る以上のことをするのはほぼ不可能だった。もっとも、本人はその状況に愚痴をこぼそうとはしなかった。日本的な礼儀正しさがそれを許さなかったのだ。痛みの程度を把握するために、シャルケは1から10までの評価スケールを内田に渡し、負荷によって痛みがどれほど大きくなるのか伝えてもらうことにした。すると、“ウシー”はいつも“1”か“2”を指し示しては、足を引きずって練習場を歩いて行くのだった。冬により内容の濃いメニューに参加して初めて、彼はペインスケールの“10”の位置を指し示した――そしてその後、このままでは無理そうだということがわかった。内田は再び日本の執刀医のもとへ飛び、今現在もそこにいる。

これらの歴史を鑑みると、28歳の彼が再び負荷にしっかり耐えられるのはいつになるのか、シャルケのブライテンライター監督も疑問視せざるを得ない。新シーズンの構想を内田ありきで練ることは難しい。サシャ・リーターが新しい契約を得られるよう、ブライテンライターが尽力しているのはそのためだ。1年前、このベテランとジュニオール・カイサラを獲得したのも、内田の負傷が理由だった。ブライテンライターは再び右サイドバック2人で新シーズンに入りたいと考えており、リーターについてこう言っている――「サシャは自分の役割を十二分に果たしている。それだけに彼のことは私から強く推しておいた」。

Manfred Hendriock


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2016/02/07

Berliner Morgenpostの原口元気&久慈修平インタビュー

2016年2月7日 06:00
日本人トップ対談
ヘルタの原口とアイスベーレンの久慈から見たベルリン
http://www.morgenpost.de/sport/article207014363/Was-Herthas-Haraguchi-und-Eisbaer-Kuji-an-Berlin-lieben.html


M. Stein / J. Lange

アイスベーレンの久慈修平とヘルタの原口元気が、ベルリンでの挑戦、ドイツの文化、眠そうなチームメイトについて語る。

ベルリン。まずは遠慮がちに型通りのお辞儀をした。1回、2回。ヘルタのウィンガー原口元気(24)とアイスベーレンのフォワード久慈修平(28)は、故郷を遠く離れても自国の礼儀作法を守るのだった。大きな声で挨拶をするでもなく、握手や肩に手を回すようなしぐさもない。ヘルタのメディアルームで撮影が行われる前に少し言葉を交わしただけだ。こうして恭しく距離を保ったまま対面した二人の日本人だったが、お互い好奇心を抱いていることは感じられた。


ベルリーナー・モルゲンポスト原口選手、久慈選手、お二人は9月から同じベルリンを拠点としていますが、顔を合わせたことは一度もないそうですね。お互いについてはどの程度ご存知ですか。

原口元気:正直なところ、あまり……日本人がベルリンでアイスホッケーをしていることはツイッターで知ったぐらいなので。

久慈修平:元気さんは日本でかなりの有名人です。日本にいるときから個人的にお会いできたらいいなと思っていました。


お二人の出身地は約1万キロメートルのかなたです。ホームシックにかかったときはどうするのですか。

原口:ホームシックになると思われているのかもしれないけど、実際はあまりないですね、ここの生活にすごく満足しているので。10月からは妻がベルリンに来てくれていますし。家族や友人に会いたくなるときももちろんありますよ。でもそれを辛いと感じることはないです。

久慈:僕は一人暮らしですけど、自由を満喫しています。チャットや電話ができるアプリを使っている日本人は多いし――日本と連絡を取り合うのにそう苦労はしていません。


プライベートが快適であることは、トップパフォーマンスを出すためには欠かせないものですか。

原口:一番大事なのは健康。体調が整っていれば、他のこともうまくいきます。

久慈:ストレスを抱えすぎるのはだめですね。うまくいっていないことを気にしても何にもなりません。前向きでいることです。


そう簡単なことではない。だからこそ久慈修平は多くを学びにアイスベーレンにいるのだ。スケートで速く滑ることができる、それではドイツ・アイスホッケーリーガで続けて出場機会を得るには十分ではない。まだ1得点も挙げていない久慈だが、ファンへの感謝という意味でもゴールこそが大きな目標となっている。だが、今はファンたちも久慈の不在を受け入れるしかない。彼は日本代表としてオリンピック予選を戦うために日本にいるのだ。一方の原口はヘルタで2シーズン目を迎え、レギュラーに定着している。彼の願いは、ヘルタのチャンピオンズリーグ出場、日本代表のワールドカップ出場に貢献することだ。19試合1得点と、最もゴールの匂いのするベルリーナーというわけではないが、それでもインタビューにおいては常に最も人気のあるプロ選手だといえるだろう。


試合後に日本人ジャーナリストの集団に囲まれていることがありますよね、原口選手。アイスベーレンの試合でも日本人記者が来ているのをよく見かけます。

原口:ブンデスリーガは全部ではないけれど日本でもテレビで放送されているし、インターネットでもよくニュースになります。人気は高まっていますね。

久慈:それはアイスホッケーでは夢の話ですね。メディアではこのスポーツはごく限られたところでしか行われていないので――日本の北部、北海道だけで。


それでもプロとして海外でプレーする選手への関心は高いのでは。

原口:日本は島国で、メンタリティにも言語にもそれは表れています。日本人の多くは日本語しか話しません。海外に挑戦する人はそれだけで尊敬されるようなところがあります。


ヨーロッパへの移籍を決断するのは難しかったのですか。

久慈:日本のアイスホッケー選手は世界では特に注目されるような存在ではなかったので、オファーがほとんどありませんでした。自分にとっては非常に大きなステップ。僕はいわゆるパイオニアなんです。


原口選手はブンデスリーガ所属の日本人10選手のうちの一人です。ドルトムントの香川真司はアジアではポップスター的存在であり――原口選手のツイッターのフォロワー数はヘルタBSCよりも多い(※訳者注:2016年3月11日現在ではヘルタのフォロワー数が上回っている)。日本で気付かれずに出歩くことはできるのですか。

原口:浦和ではほぼ無理ですね、実際よく知られているので。ベルリンでは邪魔をされることもなく自由に歩けます。これはすごく快適ですね。


オフの時間の過ごし方は。

原口:僕はあまり行動的な方ではないです。だいたいは家にいて、ソファーで寛いでいます。あとは犬と近所を一周したり。

久慈:僕もどちらかというとインドア派です。ありがたいことにYouTubeがあるので!日本のテレビドラマを毎日見ています。


ベルリンに住むこの二人の日本人は似たタイプなのか、一方が答えるともう一方がそれに賛同してうなずく場面が多かった。それでも、スポーツ選手たちの裏の顔に迫るのはそれほどたやすいことではない。このインタビューの状況で思い出すのは、映画『ロスト・イン・トランスレーション』だ――詳しく答えてもらったかと思うと、その後にはたいていごく簡素な通訳が続くのだ。言葉、それもまたテーマの一つだ。久慈はチームの中では簡単な英語で意思疎通しており、困ったときは翻訳アプリの力を借りている。さらに困難なのは日常生活だ。より良い乗り切り方を身に付けるべく、原口はドイツ語を勉強している。


ドイツに慣れるのは大変ですか。

原口:初めは食べ物も言葉もやり方もすべてが新しくて。ラッキーだったのは、ヘルタにはすでに日本人、それも浦和時代から面識のある細貝萌さんがいたことです。すごく助けてもらいました。この点では修平さんの方が難しかったんじゃないかと……

久慈:まあ、僕も日本代表で面識のあったマーク・マホン元コーチという支えがいましたから。今は彼がいなくてもうまくやっていけるようになりました。


ドイツらしいなと感じることは何ですか。

久慈:ドイツ人の選手には朝ものすごく眠そうな人がいる(笑)。でも氷の上に立つとすぐ集中力を上げてくる。僕ら日本人は練習の1時間前から準備をして、少しずつ高めて集中していく。ドイツ人にはそういうのは必要ないみたいですね。

原口:そう、ドイツ人選手は切り替えがほんとうに上手い。

久慈:これもドイツらしいなと思うのはファンですね。自分のチームを愛していて、常にすべてを捧げてい
る。写真やサインを求めてくれるのはうれしいです。


正直にお答えください。ベルリンで一番おいしい日本食が食べられるのはどこですか。

久慈:食事はスポーツ選手にとっては非常に大事なので、たいていは自炊しています。贔屓はこれといってありません。ドイツの食べ物も開拓中です。ソーセージは大好きです。

原口:一番おいしい日本食は我が家にあります。嫁さんほど料理がうまい人はいないので!


ドイツ人と日本人ではどんな違いがあると思いますか。

原口:自分の人生を日本人よりもしっかりと楽しんでいる人がドイツには多いと思います。僕はほとんどサッカー中心で。だから選手たちにも言われましたよ。ゲンキ、サッカーが全てじゃない。人生の他の面を完全に無視してはいけないと。これは僕らが学べる部分でしょうね。

久慈:コミュニケーションの取り方もドイツ人の方がうまいと思います。日本だと敏感に反応する人が多いし、言い方にものすごく気を遣います。これが誤解に繋がりやすいんです。


実際、お互いのコミュニケーションは節度が守られていた。それでもこの日本人二人の対面は心温まるものだった。別れ際には自分用にセルフィーを撮り、家族用にサインをし、お互いを自分の試合に招待した。唯一すんなりとはいかなかったのがユニホーム交換。久慈の名前が入ったアイスベーレンのユニフォームはレアアイテムになっていた。ベルリンを訪れた彼の両親が買い占めていたのだった。



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