2016/10/06

westlineの内田篤人の記事

診療録
いいかい内田篤人、すぐ戻って来るんだよ……
http://www.westline.de/fussball/schalke04/atsuto-uchida-junge-kommt-bald-wieder


2016年10月6日 09:28 Susanne Hein-Reipen

【ゲルゼンキルヒェン】 マドリードでのアウェー戦で彼がFCシャルケ04として最後にピッチに立ったのは1年半以上前のことだ。それ以来、クナッペン(※訳者注:シャルケの選手たち)の中に右サイドバック・内田篤人の姿はない。その長期負傷中の彼から吉報が届いた――。

2015年4月に膝蓋腱を手術した右ひざは、女子の憧れの的である日本人の内田を長期療養患者にしてしまった。背番号22の彼が練習場に戻ってきたというニュースは、後戻り、つまり問題のひざが再び腫れて不安定だという知らせといつも入れ替わるのだった。

先日は、よりにもよってヨーロッパリーグで快勝という喜ばしいニュースの後に、“ウッシィィィィィィ”が――シャルケで内田は愛情を込めてこう呼ばれている――28歳にして選手生命を絶たれる恐れがあるとの恐ろしい知らせがメディアを通じて舞い込んできた。クラブは即座にそれを否定した。新たに行ったひざのMRI検査で「明らかな回復の所見」が得られ、この前進が続けば基礎トレーニングの内容を引き上げることができるというのだ。

心のど真ん中

この吉報にケーニヒスブラオ(※訳者注:シャルケのこと)のファンたちは沸き立った。2010年に鹿島アントラーズからシャルケに移籍してきた小柄な日本人の彼を、ずっと前からファンたちは心底愛しているのだ。移籍当初はこの極東の青年のポジショニングに心臓発作を起こす観客もいたものの、その不屈の献身性と尽きることのない運動量で、ジェフェルソン・ファルファンと“ドリームチーム”を組み、ルール地域の人々の心をつかんでいった。ゲルゼンキルヒェンでの時間について内田は「僕はここで戦うということを学んだ」と語っている。

そのうえ、内田は日本におけるFCシャルケ04の知名度をぐっと上げた。“ウシー”は故郷日本ではポップスター並みの人気を誇り、“添い寝ポスター”まで出るほどだ。シャルケの日本語版ツイッターアカウントにはほぼ一人で約9万人のフォロワーを集めている。日出ずる国からやって来た女性ファンがきゃっきゃっとうれしそうにシャッターを押す光景は、シャルケではとうの昔に珍しいものではなくなっている。そして、内田篤人はすべてのファンに対し――それが無邪気な女子だろうがいかにもな労働者だろうが関係なく――果てしない親切さと計り知れないほどの寛容さで、1904回目の自撮りにも応じるのだった。

クラブマガジン『Schalker Kreisel』で熱烈なカリーヴルストファンであることを告白したウシーは、チーム内でも大変好かれている。かつての相部屋仲間、ユリアン・ドラクスラーに宛てた「調子どお? がんばつてる? キミはいなくてウシーさみしい ダーリン」メッセージはもはや伝説である。(※訳者注:内田&ドラクスラー置き手紙記事参照)

シーズン開幕イベントにおける内田のドイツ語インタビューは、しばしば爆笑を誘っている。2014年には「クソくらえだ、ありがとう!」と明るく言い放ち、今年は「クソったれBVB」と機転を利かせ、観客とニヤニヤ笑うチームメイトたちの心をつかんだ。

内田は日本代表として74試合に出場しているが、肉離れで数か月間休養していたにもかかわらず参加した2014年のワールドカップもそこに含まれている。当時のシャルケのディレクター、ホルスト・ヘルトはそれに批判的だったものの、度重なる日本での治療のときと同じく、ウシーの邪魔をしたくはなかった。もしシャルケが内田のブラジル行きに異議を唱えていれば、彼の苦難の歴史と離脱期間はより短期間で終わっていたのだろうか。後からそれを立証できる者はいない。それよりも前に内田はシャルケでの契約を2018年6月まで延長している。

「ひざは完治しない」ということわざが真実ではなく、彼が104というシャルケでのブンデスリーガ試合出場数をまだまだ伸ばせることをシャルケのファンは願っている。“ウッシィィィィィィィィ”がすぐにまた右サイドを疾走できるよう、皆で健闘を祈りましょう!



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